2011年4月13日水曜日
2011年4月1日金曜日
Rabbit Hole
というタイトルの映画を先ほど観ました
二コールキッドマン出演
なんとなく~~で借りた映画
1人息子の男の子を交通事故で亡くした夫婦が
お互い違う方法で息子の死を乗り越えていくって感じのストーリー
ありきたりのストーリーなんだけど
映像の中で
あまりにもリアルな部分があり
考えさせられた
一番印所に残るのが
二コールキッドマンが
子供の使っていたプラスティックのお皿やストローカップ、ランチボックスなんか
すべてを処分
洋服をすべて洗濯する場面
そうだよねぇ
そういうとっても現実的なことって
誰もその場にならないと分からないよね
そういうことをやらなくてはいけないってこと想像も付かないよね
きっと、こんなことやるのってとっても悲しくて、かつ勇気がいることだ思う
捨ててしまうと、自分の子供の存在を消してしまうってことだろうか?とか思ったり
かといって、残しておくと残された人が前進できないんじゃないかとか?
あえていえるのは
ヒーリングって人それぞれ
こうするべきとか、こうしたほうがいいとか
誰も強制できないし、自分のやり方で、自分の時計でやっていくしかないもの
亡くなった人のことを無理やり忘れなくてもいいってことだけ覚えていればいいんじゃないかなぁ
きっとつらいけど
最愛の猫が亡くなった日
猫のいないアパートに帰るのがどれだけつらかったかことか…
それでも
時間が少しずつ悲しみをやわらげてくれるものです
猫のことは今でもしっかり私の中にいます
やはり生きているものはいづれなくなってしまう
はかないもの
だからこそ
命を大切にしなくちゃって思います
なくなるものだからこそ、その重みも大きい 命
残されていく人の悲しみは その分優しさに変わるんじゃないかと思う
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